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睦英先生

県立高校の2年と3年のときの担任は、英語教師だった。ところが、英語ができなかった。Janeが発音できなくて、「ゼイン」と言っていた。

発音だけではなくて、リーダーの訳もあやしかった。私はESSに所属していたのだが、顧問のはずの先生は、モルモン教の宣教師が英会話を教えに来ると、机に目線を落として全身で「話しかけないで」オーラを発散していた。リスニングなんてできなかったし、会話なんて絶対ムリだった。

「我が師」を問われて、真っ先に思い出すのは、でも睦英先生だ。英語の教え方が上手かったから、ではない、さすがに。ときどき、聖書の話や講談をしてくれた。それは覚えている。自分の学生時代の話もしてくれた。戦争を挟んだせいで、中学3年生になるまでアルファベットは教わらなかったそうだ。それじゃあ、「ゼイン」でも仕方ないかも。

中背で痩せ型。いつもくたびれた背広を着ていて、恰幅のいいひとではない。眼鏡をかけて、どちらかというと気弱そうな印象。どことなく、「なにかの間違いでそこにいる」ような雰囲気を漂わせていた。

思い出すのは、私のために戦ってくれたこと。

うちはビンボーだったので、高校に進学するときにもいい顔はされなかった。ちょっと待って、いつの時代の話?って思うでしょ? 私は昭和40年生まれ。私の下に妹がひとり、弟がふたりいたし、大学進学には猛反対された。ん~、一応進学校に通っていて、成績はよかったのよ。理系はぜんぜんダメだったし、自分でも投げて勉強しなかったけど、文系はよくできた。国語も英語も大好きだったから。

高校1年の夏休みに妹とふたりで、福山から東京に住む義祖母のところに遊びに行った。義祖母は伯父と同居していた。伯父は、「なにが欲しい?」と私達に訊いた。妹は「洋服」と答えて、伊勢丹で洋服を買ってもらっていた。私は欲しいものだらけだったけれど、『「風とともに去りぬ」の原書』と答えて、新宿の紀伊国屋に連れていってもらった。福山にもエレベーターは当たり前にあったけれど(笑)、エレベーターのある本屋を見たのは生まれて初めてだった。

その他にも、友人が上京する度にお土産で買ってきてくれた原書が増えた。愛して止まない「赤毛のアン」に「星の王子様」、etc。「赤毛のアン」や「星の王子様」はともかく、「風とともに去りぬ」は英語が難しすぎて、会話部分くらいしか読めなかったけれど。

当時、旺文社の模擬試験では、国語と英語で偏差値85までは取ったことがある。数学や化学は45とかの世界だったけれど。平均すると65は取っていたのかな? けれども両親は進学には大反対。特に母親は、「女の子に教育は要らない」。進学の話をする度に、「夢は寝てから見なさい」。

高校三年の2学期の三者懇談。いつも温厚な睦英先生は私のために戦ってくれた。「可奈子さんは、東大、京大、阪大以外ならどこにでも入れます」。真剣を振り下ろすような気迫があった。さすがの母も気押された。「1校だけよ」と、なんとか共通一次だけは受けさせてくれることになった。

肝心の試験の朝には、「がんばって落ちてきなさい」と見送ってくれたけれど。ん~、号泣した。余談ながら、その後の二次試験を受けに行くのもタイヘンだった。何度説明しても、「1校だけ、って言ったでしょ?!」と、分かってもらえなくて。

奨学金を借り、バイト・バイトの生活で仕送りはゼロ。いまどき珍しい苦学生になった。大学を卒業できたのは、ちょっとしたキセキだったかも。その後、25歳で国際結婚し、以来18年間ずっと外国に住んでいる。楽しいこともたくさんあったし、貴重な経験もさせてもらったけれど、辛いこともそれなりにあったよ。

でもね、私の心にはお守りがあるの。卒業する前、最後の成績表に睦英先生はこうコメントしてくれた。「自分のやりたいことが分かっている生徒さんです。能力もあり努力もします。将来必ずや成功なさることでしょう」って。

卒業して21年。いまだに成功はしていないけれど、ソフトウエアなら丸々1本、8ヶ月で訳した。英語でエッセイを発表して、原稿料をもらっている。ケンカでも論争でもレンアイでも、英語ならネイティブにも負けない。それよりなにより、私は自分の家族と友人、クライアントを幸せにしている。そう、こういうのを「成功」って言うのかも知れない。もしかしたら。

ムリしないていどに、家庭を壊さないていどに、これからも精進していきたい。そしていつか、自分がしてきたことを全部、睦英先生に報告したい。そうしてお礼を言いたい。「40年間生きてきたけれど、私のために戦ってくれたのは、あなただけでした」と。